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羽生結弦が嫌いだった理由

こんにちは、フェルナンデスユウコ由布子です。

平昌オリンピック、中々盛り上がってますね〜。自他共認めるオリンピッ子な私、冬季はさほどじゃないものの、今回も楽しく熱く応援しております。

日本勢の活躍もなかなかなもので、中でもヤッパリ圧巻だったのは、二大会連続金メダルという偉業を成し遂げた羽生選手。怪我を乗り越えてのあの演技は、とてつもない精神力が無ければできないでしょう。リンクでの練習はなんと1月上旬からとか。。

それでも、人を惹きつけるあれほどの演技をして、あそこまでの点数を叩き出すって、ほんともう、天才だよね。

羽生結弦が嫌いだった

実は前回のソチオリンピックの頃は彼のことが好きじゃありませんでした、ワタクシ。嫌いと言うか、見てるのが苦手。あまりに熱狂的なファンが多いので後ろから刺されないために公言することはほとんどありませんでしたがね。

とある友人にそれを言ったら「なんでそんなにひねくれてんの〜」と言われてカチンと来ましたが(笑)、別に皆が好きだって言うからなんとなしにキライ!というわけではなくね、彼の挙動がどうも鼻に付いていたわけですよ。

多くの女性が好きだと言う、あの仰々しい立ち居振る舞いと、不自然なほど作り込まれたスキのない笑顔にどうも違和感を覚えていたのです。なんか気に食わねえ、、みたいなね。(ほんとすみません、ファンの人)

ちなみに、他にも同じような人はいるだろうなと思って改めて検索してみたらこんな記事を発見。。ファンの方は見ないほうがよいかもしれませんね。ご自身の責任の範囲でどうぞ。最後の追記文章がもう気の毒・・・

羽生結弦が嫌いな人に見られる『4つの特徴』

羽生結弦を嫌いだった理由

上記の記事にあった4つの特徴は私に当てはまる部分がゼロではないかもしれませんが、(ちなみにホ◯っぽいとかは極めてどうでも良いことです、個人的には。)とにもかくにも、羽生結弦選手の「自分が周囲にどう映っているのか」と人の視線ばかりを意識したような、不自然な態度がどうも苦手だったのでした。

ここで具体的な例をあげなくても、きっと「ああ、ああいうのね」とわかる方は多いと思います。それを好きか嫌いかは別として。

ちなみに、そのせいか自然体すぎる宇野くんは好きです。
『オリンピックと思って滑ってない』とか
『特に想いはないです』とか
面白すぎますわ、ほんと。まあ、まだ幼いのかもですけれどね、そこから来る強さもあると思う。

羽生結弦に感じた違和感は自分を深掘りするチャンス

違和感や嫌いな感覚は、自分を知る多くのヒントが隠されています。スルー出来ない違和感や嫌いな感覚、また嫌いな人というのは、実は自分自身がそういう側面を持っていて、それは自分が本当はしたいということだったり、時には変えたいと思っている部分、ということがあります。

いやいや、そんなはず無いよ!と、表面的には思うかもしれませんが、その違和感の中には、自分でも気がつかない心の奥に渦巻く欲望や羨望が見え隠れしているもの。だから違和感から学べることは多いのです。

例えば、私は電車の中でお化粧をする人が嫌いです。ま、好きな人はいないでしょうが、スルー出来る人はいるでしょう。でも私はイラってくるので、そういう人に出くわしたら違う席に移動します。

でもなんで、こんなに嫌いなんだろう、って考えた時、「人の目線を気にしない」でここまでやれることを、実は羨ましいと思っているのだろうな、、と気が付きました。

人前での化粧なんてみっともないことこの上無いですが、他の人の視線がどうでもいいってことですよね、ある意味その神経が羨ましいわけですよ。

私は昔はずっと人の目線ばかりを気にして他人の人生を生きていました。

音楽活動も休止せざるを得なかったのですが、このことをきっかけに心の勉強をして、歌と生き方が変わり、人の目線を昔のように気にすることが無くなったのです。歌も再開できるほどになりました。

羽生選手が台頭してきた頃はちょうどその変化の時期だったように思います。

『人の目線や評価を基準にせず、自分の思い通りに生きる!』、それを人生の大きな課題とし、そう生き始めた喜びを感じる傍ら、人の目線を意識したような彼の仰々しい立ち居振る舞いに、「それって違うんじゃないの!」と否定をしたかったのでしょう。

天才は放っておけ

精神的な変化や成長を重ねるに連れ、羽生選手に感じていた違和感は、なくならないもののスルーできるようになってきました。「こういうのがあってもよいよね」と。(上からだよね、すみませんw)

そして今回の平昌オリンピックで、羽生選手の素晴らしい演技とその強くて類稀な精神力に感動すらしたのです。もう彼は天才なのでしょう。努力とスター性を併せ持つ天才。

とあるジャーナリストの記事で、「羽生結弦はメディアジェニックだ」と書かれてるのを読んだことがあります。

メディアへの対応能力が極めて高い、という意味だそうですが、これはもう「自分がどう映って居るのかを天才的に察知し自然にベストなものを提供できる」ということではなかろうか、と。

 

『「自分が周囲にどう映っているのか」と人の視線ばかりを意識したような、不自然な態度がどうも苦手だったのでした。』、と書きましたがね。本当余計なお世話って話しですよ。一般的な感覚とはちょっとかけ離れた尺度で捉えなきゃならない、そんな人だと改めて思いましたね。

羽生結弦から学べること

違和感から学んだこと

このことで、人の目線に関して私自身が非常にセンシティブなんだな、と改めて気付かされました。電車の中のお化粧云々、、に関してもそうですが、必要以上にフォーカスする、それはきっとまだ私が人の目線や自分への様々な評価に固執してるんだな、と思い至りました。

でも何より自覚があることが大事だと何事においても考えてるので、無理してそれを直そうなどとも考えず、ただただそれを受入れてました。そうすると自ずと気にならなくなるものですね。

仰々しいパフォーマンスも彼のスタイルであるし、何より自分を追い詰める努力を惜しまない天才という類まれなるパフォーマーでありアスリートだったわけで。むしろもはや尊敬です。

パフォーマーとして学んだこと

フィールドのジャンルもその大きさも桁違いではありますが、パフォーマーとして彼から学べることはたくさんあります。

『人の目線』というものはステージに立つボーカリストとしては、本来常に意識しておかなければならないこと。彼は自然とそれをやってのけてるのでしょうが、それが出来ない私は作り込んで決め込んで、でもそれをいかに自然に見せるかに心を砕かなければいけません。

とある音楽業界の大先輩に聞いた話ですが、超有名歌手のCさん、鏡張りの部屋で毎日ポージングの練習をするとか。。人前に出る人は、それなりに自意識とナルシストっぷりはきっと必要なのでしょうね。

違和感は無視するな

自分の中で感じた違和感は無視しない。これは決してその違和感を大事にしろ、とかそのままでいいんだよ、とかではなく、その奥に今まで気がついていなかった自分を知るチャンスがある、ということです。

音楽だってそうです。音やリズムのハマりになんとなく違和感を感じたらそれは無視しては絶対良い歌にはならないんです。それをスルーせずにしっかり深掘りすることで見違えるような曲になっていきます。

違和感を深掘りした結果よりも、そのプロセスこそが、自分の直感力も思考力も高めてくれるものになり得るし、自分自身を成長させ世界を広げてくれるものになるのではないでしょうか。

 

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